概略

1965年 北海道に生まれる。

1990年 としまえん昆虫館で働き始める。

1998年 群馬県庁職員となり、ぐんま昆虫の森建設準備室に配属。

2005年 ぐんま昆虫の森全面オープンとなり、展示、飼育、プログラム、フィールド整備にかかわりながら現在に至る。

この仕事に就くまでの軌跡

1965年 北海道旭川市に生まれる。

当時、父は国鉄職員で、転勤により、生後5カ月で横浜市に移り住むことになります。当時、2歳の頃だと思いますが、近所の田んぼでザリガニを採ったことが一番古い記憶です。

その後、3歳で静岡県三島市に移り住み10歳まで過ごします。母にはよく楽寿園に連れて行ってもらいました。オオサンショウウオを展示した水槽があり、行くたびにのぞき込んでいました。当時の住まいだった国鉄アパートでの思い出は多く、隣の敷地が国鉄の整備場で、友達と薔薇線柵をくぐっては忍び込み、よく探検していました。貯水槽に落ちたり、薔薇線に刺さったり、かなり危ない遊びをしていたことを思い出します。昭和の良き時代で、子供同士で探検ごっこと虫採りが日常的な遊びでした。泥だらけになり、また、日によってはずぶ濡れで帰ると父にはよく怒られました。アパートの住まいは5階でベランダがあり、捕まえてきたヤゴを洗面器で飼って羽化を見たり、鉢植えのミカンの木にアゲハが産卵し、その成長を母と一緒に観察したことを思い出します。

小学2年生の夏休みに、父母の故郷でもある北海道に旅行をして、各地の親戚を訪ねたことはとても印象深く覚えています。この時に母親が持っていたカメラを借りて、トンボを接写したことが、昆虫写真を志す原点だったかもしれません。昆虫図鑑を日々眺める中で、こんな写真を撮りたいという思いが芽生えていたのだと思います。

父が土地家屋調査士の免許を取得したことで国鉄を早期退職し、静岡県御殿場市に店を構え転居することになります。この時小学3年生。転校先の小学校は、三島市の学校とはずいぶん雰囲気が違い、それまでなかった宿題が毎日課されました。新しい日常を受け入れられず、毎日、宿題をやりませんでした。当然、先生にはすこぶる怒られ、耳を引っ張られて「お前は三島の学校にきゃーれ(帰れ)!」と怒鳴られました。怒られてもまったく響かない人間だったようで、その後も宿題はやらず、学校に行けば怒られるという日々をほぼ毎日のように過ごしました。少しというか、かなり変わった子供だったと思いますし、成績は言うに及ばず不振であり、両親も将来を心配していたと思います。自宅の裏には小川が流れていて、アブラハヤを釣ったり、ヤゴを掬うという遊びが帰宅後の日課でした。雑木林も近くにあり、カブトムシ、クワガタムシへの思いは人一倍強いのものがあったと思います。父は「勉強しろ」と言いながらも、虫採りに連れて行ってくれました。昭和の後期に育った私の少年時代は、日常の中での様々な逆境に対して、何か、心を癒せるゆとりがあったような気がします。今の時代だったら、私自身も将来を悲観的にとらえるべき境遇に思えますが、「好きなこと」がはっきりしていた中で、いやなことを忘れるほど夢中になるという、頭の中の切り替えができていたのかもしれません。

地元の中学、高校と進学する中で、一時期は釣りに熱中したり、熱帯魚にはまったり、音楽も好きで、それなりの一般性がある趣味も持ちつつ、昆虫とはやや離れた時間もあったと振り返ります。その後、何も考えずに地元の企業に就職し、工場での3交代勤務を4年ほど過ごします。いつしか、「このままでよいのか?」という気持ちがふつふつと沸き上がります。そんな時、平凡社様が発行していた当時の動物雑誌「アニマ」の裏表紙に載っていた「日本動物植物専門学院」が目に留まりました。「そうか!俺は生物が好きなんだ!」まだ、夢は追えると。

仕事をやめて上京し、ちょっと遅い学生ライフが始まります。周りは動物好きばかりで、それは楽しい毎日でした。入学当初はアニマルケアー課でしたが、友人に刺激されて、2年からは野生動物課に転課しました。このあたりから本気でカメラを始めることになります。実家に帰った時に父のCANON AE-1を譲り受け、その足でヨドバシカメラに立ち寄って、トキナーの90mmマクロを購入します。海野和男さんの著書である「昆虫の撮影法」と「昆虫写真マニュアル」を食い入るように熟読して、基礎的なことを学んでいたと記憶します。

最終目標の就職を考えたとき、動物園にでも就ければという思いがありました。そんな時、またしても「アニマ」が人生を変えることになります。昆虫館特集号をアルバイト先で読みながら、そこには多摩動物公園昆虫園と豊島園昆虫館が載っていたのです。当時の多摩動物公園は都立でしたので、公務員試験のパスが必須なことから、学業不振の私には厳しいとあっさり断念します。豊島園は一般企業だから望みがあると考え、さっそく電話をしました。「昆虫館に就職したい」という旨を伝えると「遊園地業務全般ができないと採用はできない」とあっさり返されますが「なんでもやります!」と愛想よく切り返すと「では、採用試験に来なさい」ということになりました。

豊島園昆虫館(1995年)

1990年に晴れて豊島園に入社することになります。しかも念願の昆虫館に配属となりました。当時はバブル期崩壊といわれながら、まだ余韻を残し遊園地業界は潤っていたように思います。昆虫館も職員定数+1増員となっての配置でした。のちに聞いた話ですが、昆虫館で働きたいという問い合わせは多いなか、ほとんどがお断りの返答のようでした。私が電話をしたときに、たまたま人事部長につないでいただき、このような幸運な結果になったとか・・・

1957年に矢島先生が創設にかかわった歴史ある「豊島園昆虫館」ですが、私が配属された時点で、1973年にリニューアルされた施設でした。展示物が古く、生態展示も虫が入っているだけの入れ物という感じで、この薄暗い古めかしい雰囲気を払拭したいと強く感じました。ちょっと鼻息が荒い新人さんが来たという感じで、先輩方は煙たかったかもしれません。確か42ケースの生態展示があったと記憶しますが、FRP製で汚れた塗装がむき出しの背景でした。まず、塩ビのバックスクリーンを入れて、ディスプレイをコツコツと作り直す作業から着手しました。次は展示パネルに着手しますが、当時は外注で製作するには大変高額で、予算が通る状況ではありませんでした。そこで、資材としてハレパネの3×6尺をベースに塗装をしてフレームを付けます。そこに写真プリントを貼り付けて、解説文字はワープロで打ち出した文章を、カッティングシートに型として貼り付けて、それをなぞって切るという、今では考えられないような手先の労力で製作したことを思い出します。徐々にリニューアルが進む中、工務部署から、「ホッケーゲームの台を廃棄する予定だけど、昆虫館で使えない?」という問い合わせがありました。物を確認すると、重厚な台にアクリル製のドームがセットになったものでした。そこで、ひらめいたのが、バッタの模型を作って、昆虫の体のつくりを展示するというアイデアでした。模型製作については過去の実績はありませんでしたが、図工は得意でしたので、なんかできそうな気がしての発想だったと思います。そんな手作りの日々は、私にとっての修業時代であり、懐かしくも有意義な時間だったと思い起こします。

豊島園昆虫館の生態展示 青のバックスクリーンを入れて、テラリウムをすべて作り直しました。

豊島園昆虫館時代に製作した手作りパネル

ホッケーゲームの台がきっかけとなった手作りのバッタ模型 背景の解説板もレリーフ調にしました。

そして、この時の人脈から、あこがれの海野和男さんに出会い、よく事務所にお邪魔させていただきました。「最近、撮った写真を見せなさい」と言われ持っていくと、ばっさりとダメ出しをされました。しかし、ほめていただいたこともあり、海野さんの言葉がどれだけスキルに影響したかは計り知れないと思います。小諸の別荘にもよくお邪魔させていただき、手料理をごちそうになりました。そんな海野さんへのあこがれでプロの昆虫写真家という夢も当時は抱いていました。

多摩動物公園昆虫園との交流もありました。荻野さん、三枝さん、いずれも矢島先生とともに昆虫園を創ってきた先輩方と酒を酌み交わしながら話す機会は大変有意義でした。当時は、多摩動物公園昆虫園の大温室が完成してまもないころで、その施設規模の大きさにうらやましくも感じたものです。また、各地で新しい昆虫館が次々と誕生した時代でもありました。としまえん昆虫館で何年か過ごす中で、公立の昆虫館との格差をひしひしと感じつつ、もしチャンスがあれば、公立の昆虫館にチャレンジしたいという気持ちが沸き上がります。

1997年多摩動物公園昆虫園で開催された「全国昆虫施設連絡協議会」がありました。この協議会は矢島先生が立ち上げたものです。当時、豊島園昆虫館の施設長となっていた私は、代表として出席することになります。会場に到着したとき、フロアーに立つ恰幅の良い矢島先生のお姿を今でも鮮明に思い出します。思い返すと咄嗟な行動だったと思います。「豊島園昆虫館の筒井と申します」と自己紹介し、その流れで、「新しい昆虫施設の計画があったら、是非、機会を与えてください」と単刀直入に思いを伝えました。その後、矢島先生は豊島園昆虫館に足を運んでくださり、展示を見られたうえで、一通のお手紙をくださいました。そこには、「ぐんま昆虫の森」の計画があることと、挑戦する意思の確認が綴られていました。

この年、景気の悪化を理由に、豊島園昆虫館の閉鎖が決定されます。本当に綱渡りの時期だったと思い起こします。閉鎖後の後片付けを一人でさせられ、戸棚の奥から出てくる古い資料を見ながら、これだけ歴史ある施設を、自分の代で終わらせてしまったことへの責任と無念さを感じずにはいられませんでした。その後、豊島園では乗り物の担当をしながら、ぐんま昆虫の森の動向を待つという不安な日々を過ごします。

そして、群馬県での採用面接の案内が届き、人生の新たなスタートを切ることになります。