矢島稔名誉園長とぐんま昆虫の森  筒井 学

ぐんま昆虫の森 昆虫観察館を背に 2007.4.1

「昆虫施設の父」とも言うべき矢島先生が他界されたという現実を受け止めつつ、あらためて先生と歩んだ道筋を追想しながら書かせていただきます。

多摩動物公園に昆虫生態園を完成させた大事業(1988年)は、矢島先生のそれまでの歩みの節目でもありました。しかし、そこが終わりではなく、さらに昆虫施設の未来はこうあるべきという理念を、インセクタリウム(1995年)に掲載されています。そこには里山という実物の自然環境を併設した、自然の中での実体験を重視した昆虫施設が示されていました。

そんな折、1995年に「ぐんま昆虫の森」の構想が産声をあげたことは奇跡であり、矢島先生の人生の集大成として、この事業に関わられることになったことは、まさに天命だったと感じます。

私ごとですが、1997年に開催された全国昆虫施設連絡協議会において、矢島先生と初めて出会いました。当時、豊島園昆虫館に在籍していた私は、将来的展望に悩みながら、「新しい昆虫施設の計画があったら、是非、機会を与えてください」と単刀直入に思いを伝えました。その後、矢島先生は豊島園昆虫館に足を運んでくださり、展示を見られたうえで、一通のお手紙をくださいました。そこには、「ぐんま昆虫の森」の計画があることと、挑戦する意思の確認が綴られていました。

ぐんま昆虫の森構想については、県知事であった小寺弘之さん、旧新里村の村長 吉田宰治さん、原案については、群馬県立自然史博物館の須永智さん(いずれも当時)が大きく関わったことをここに記しておきます。うち、小寺弘之さんと吉田宰治さんは、すでに他界されています。

計画は1998年に建設準備室として実質的なスタートを切りました。当時、矢島先生は東京動物園協会の理事長という立場も兼任されており、忙しい合間を群馬県まで出向かれ、計画の骨子の策定に奮闘されます。

昆虫施設としてはかつてない大事業ということもあり、設計を進めるにあたり幾多の困難が待ち受けていました。世界的な建築家である安藤忠雄さんが設計するにあたり、デザインと機能をどのように融合させるか、特に大温室の形状については、矢島先生として絶対に譲れない要素でした。提案されたスケッチに納得がゆかず、世界の建築家 安藤さんと対等に渡り合いながら自らの希望をはっきりと伝え、設計に反映させるべく苦労をされていたことを思い出します。

また、小寺知事からは「里山に温室が必要か?」「博物館的施設は造らないでほしい」という、考えの表明もあり、設計にあたっては調整役としての大役に奮闘が続きます。ようやく設計がかたまり、2002年春にいよいよ昆虫観察館工事が着工となります。開園までの間は、講演の依頼が相次ぎ、広告塔として各地で講演活動にも従事しています。いつしか、「ドクトル・ムッシーのおもしろ昆虫教室」というタイトルが定着していました。

2005年8月1日、ぐんま昆虫の森全面オープンの日を迎えます。構想から10年を経て、まさに夢に描いた昆虫施設がついに現実のものとなりました。矢島先生は初代園長として就任します。「長い間この施設のあり方について、知事はじめ教育長等県の幹部及び整備推進委員の意見を調整し、ようやく10年目に開園できたことは、当初からこれに当たってきた私にとっては感無量の思いである」と手記に残されています。

開園と同時に、職員は建設準備からプログラムの実施や展示の企画といった業務にシフトすることになり、組織的に混乱していたことを思い出します。矢島先生はすぐに運営方針を打ち立て、組織の統制にまず労力を注がれました。東京都での行政経験が長い矢島先生は、管理職としての資質にも長けていて、開園後の運営の安定に向けての求心力を発揮することになります。

この頃、長く住まわれた日野市から浅草に転居、週末に来園するという勤務としながら、2006年1月8日、矢島先生自らが子供たちの質問に答えるプログラム「昆虫おもしろ講座」第一回を開催します。また、近隣の別荘地に山荘を建て、ベランダにはライトトラップを設置、週末はそこに泊まりながら蛾の研究に勤しむというかねてからの夢も叶えました。しかし、順風満帆に見えた夢の昆虫館に暗雲が立ちこめます。

開園まもない2007年、任期満了に伴う群馬県知事選挙で激震がはしります。再選が見込まれた小寺知事が落選し、新たに大澤知事となります。そのマニファストには“無駄なハコモノ政策の見直し”が掲げられており、その矛先がぐんま昆虫の森にも向けられることになります。

「ありかた検討委員会」が設置され、「教育施設だからといって、湯水のごとく金を投じるとはいかがなものか」と厳しい意見が出されました。矢島先生は園長という立場で批判の矢面に立たされます。本当に矜持を傷つけられ、くやしい気持ちであった心中を察します。

10年をかけて準備してきたこの事業は、県議会の承認を重ねながら進められたものであること、そして、巨大な建物と有名建築家のデザインも矢島先生が望んだものではありません。教育施設として先進的でありながら、巨額な事業費が徒となり小寺政権批判の槍玉に挙げられたわけです。

2008年10月、ありかた検討委員会の中間報告答申があり、廃止という危機は逃れたものの、結果的に「経費の見直し」と「利用者の増加」という課題が課せられます。4年間で現状予算(運営費と人件費)を半減し、展示では映像トンネルの廃止と昆虫ふれあい温室の暖房停止という厳しい運営転換を余儀なくされることになります。この結果に対し、矢島先生は「順調に育ちつつある生き物を、半分に切って生きてみろというに等しい」と手記に残されています。しかし、矢島先生は理不尽な政治に翻弄されながらも、ぐんま昆虫の森の立て直しに向けてすぐに舵を切り邁進を続けます。苦労して造り上げたぐんま昆虫の森を、政治という荒波のうねりで沈没させてはならないという強い決意があったはずです。

2009年の運営方針の中で、「すべては互いが信頼できる同志でなければ目標は達成できません。話し合い、心を開いてよい施設にしようではありませんか」と述べられています。

園長という立場の中で職員の士気を上げ、この危機をなんとか脱するという新たな目標が矢島先生に課せられます。経費削減の中での運営の改善、そして、集客を目的とした展示やプログラムの充実に職員一同も奮起します。

開園後、入園者は年間約10万人を推移し、2009年10月11日に入園者累計50万人に達します。対象となったご家族に矢島先生から記念品が手渡されました。荒波を超えて、ぐんま昆虫の森の存在意義の確信を感じつつあったと思います。

矢島先生はボランティア組織をとても大事にされていました。ボランティア主催の集まりには必ず出席し、日頃の感謝とねぎらいの言葉を掛けていたことを思い出します。100名近いボランティアが在籍し、その力を借りながら、プログラムなどの運営の一端を担うしくみは他に類を見ないことだと、おっしゃっていました。このボランティアを引っ張る求心力もまた、矢島先生でなければなし得なかったことだと感じています。

開園から7年が経った2012年、入園者数は累計80万人に達します。この式典で矢島先生は「ここ数年は、年間10万人が来場している。昆虫を見て触って、命の大切さを子どもの頃から考えるにはとてもよい環境」と記者のインタビューに答えています。

2013年、矢島先生は園長から名誉園長へと役職が変わります。準備期間10年と開館からの怒濤の8年間。厳しい運営を迫られながらも、なんとか軌道に乗せるという責務を果たし、実質的な運営から退くことになります。この時のお歳が84歳です。

2014年に、矢島先生が吉田宰治さんの墓参りに行きたいと突然申し出られ、ご一緒させていただいたことがありました。「吉田村長がいなかったら昆虫の森はなかった」と関わった人たちへの感謝の気持ちをずっと持ち続けておられました。

晩年の矢島先生は週末に来園されては、「昆虫おもしろ講座」を開催し、子どもたちの質問に答えることを楽しみとしていました。開園以来続けてきたこのプログラムも、結果的に最終回となった2019年9月1日で493回目となっていました。「私は生涯、昆虫の受付係です」とおっしゃっていたことが印象に残ります。

また、生涯の研究テーマともいえるフユシャクについては、体温の変化と活動をどんな実験装置で計測できるかを考えては素材を取り寄せ、山荘で夜な夜な記録を取っておられました。そんな時、高額なサーモグラフィーを購入し、「これでフユシャクの体温が測れる」とうれしそうにしていましたが、取り扱いが難しく「これ、筒井君に貸してあげるからフユシャクの体温を測って」と依頼され、私もよろこんでお手伝いをさせていただいたことが、今となっては懐かしい思い出となっています。

2019年9月に体調を崩されますが、2019年11月2日に「みんなの顔が見たい」と酸素吸入器を傍らに突然来園されました。結果的にそれが最後の来園となってしまいました。

その後、11月18日には兵庫県の伊丹市昆虫館で開催された全国昆虫施設連絡協議会に出席したいと申し出られ、私が帯同させていただくことになりました。体調は万全でない中、痛々しくもその熱意には心打たれました。自らが立ち上げた全国昆虫施設連絡協議会の顧問としての役割を果たされ、東京に戻られてから入院することになります。

2020年1月4日に見舞いに伺ったのが、最後の対面となりました。コロナ渦の到来という中で、電話ではその後何度かお話をする機会がありましたが、矢島先生が最後の仕事としたいとおっしゃっていたのが「東京都立の博物館を造りたいんだ」という希望で、都議への働きかけを行っていたようです。最後の最後まで精力的な活動をされていました。

2022年4月26日、矢島先生の奥様より訃報をいただくことになります。そこでは、矢島先生が亡くなる前日に「私は明日、群馬へ行くから」と言っていたと聞かされました。

この原稿を書きながら、矢島先生と共に過ごした23年あまりを振り返り、様々な思い出がよみがえりました。それは懐かしくもあり、時に激動であったからこそ、よい勉強をさせていただき、充実した時間であったと思い起こします。

矢島先生は来客に私を紹介するときにいつも「彼がチーフの筒井君です」と紹介してくださいました。「私にはそんな役職も権限もありません」と思いながらも、今考えると、矢島先生の中では、そんな役職をいただいていたのかなと思えるようになりました。企画展を完成させるごとによく褒めていただいたし、私ごときを本当に可愛がっていただいたと思います。

一度きりの人生で、矢島先生と出会い、この仕事をさせていただいたというご縁は、私にとっての奇跡であり、矢島先生との思い出を大切にしつつ、感謝の気持ちをもって残りの人生を歩ませていただきます。心よりご冥福をお祈り申し上げます。